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HISTORY

木曽義仲 悲劇の武将

木曽義仲

久寿元年(1154年)~寿永3年1月20日(1184年3月4日)享年31
河内源氏の一族、源義賢の次男で幼少期を木曽で過ごしその後、京都で源頼政の養子となっている。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。1180年初挙兵。1183年には倶利伽羅峠の戦いで10万の平家の軍勢を打ち負かす。同年7月には入京をし、公卿より勲功を賜り、さらに朝日将軍の称号を得る。
しかしその後、後白河法皇の皇位継承問題に介入、京都の治安悪化の責任など朝廷の信用を失っていく。さらに、従兄弟、源頼朝の裏切りなどにより、「生涯の遺恨」として後白河院に猛抗議。もはや敵は平家ではなく頼朝に変わっていく。
もはや敵は平家ではなく頼朝に変わっていく。追い詰められていく義仲は、法皇との修復を図ろうともするが、時遅く決裂して行くのである。そして、ついに義仲は11月法住寺合戦において後白河法皇を捕獲し幽閉してしまう。新摂政・松殿師家のもと軍事の全権を掌握。

翌年1184年頼朝・義経率いる鎌倉軍に恐れ、自らを征東大将軍に任命し平家との和睦工作や後白河法皇を盾に北国下向など生き残りの道を探るが、鎌倉軍と開戦。宇治川の戦いに於いて惨敗をする。戦いに敗れた義仲は数名の部下と落ち延びるが、20日粟津の戦い(滋賀県大津市)で討ち死にした。

家臣

四天王

今井兼平

戦前は義仲に「武士らしく強気になれ」と助言をし、戦中は死を共にしようとする義仲に「疲れているのだから潔く自害しなさい」と冷静にアドバイスをし、義仲が自害する時間稼ぎをした。義仲が討ち取られたと知った直後、「東国の方々、これが日本一の強者の自害する手本だ」と言った

樋口兼光

今井兼平の兄
法皇と義仲が対立した法住寺合戦で法皇を拘束するなど義仲軍の中心人物として活躍した。

根井 行親

宇治川の戦いでは、義仲の命を受け、子・楯親忠や源義広らと共に三百余騎で宇治の防衛に当たったが五千騎の源義経軍を防ぎきれず宇治川を突破された。この際、一族の武将らに前後して敗死したとされている。

楯 親忠

根井行親の六男
横田河原の戦いや倶利伽羅峠の戦いなどに参戦し、活躍する。元暦元年(1184年)、宇治川の合戦に父・行親と共に参戦し、六条河原で討ち取られたとされている。

巴御前

生まれ没年不詳

軍記物語『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場し、木曾四天王とともに源義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦(治承・寿永の乱)で戦う大力と強弓の女武者として描かれている。「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記され、宇治川の戦いで延びる義仲に従い、最後の七騎、五騎になっても討たれなかったという。義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首を切った。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた所で物語から姿を消す。

手塚太郎光盛

治承四年( 一八〇〇年)、源義仲が挙兵するとその麾下に参加し、有力な部将の一人となる。寿永二年( 一一八三年)、篠原の戦いに従軍。その際に斎藤実盛を討ち取った際の逸話は、『平家物語』において著名である。

寿永三年一月、源範頼、義経の追討軍と戦い、主君義仲と共に戦死。最後まで義仲に従った四騎の内の一人であったという。歌舞伎『源平布引滝』の『実盛物語』では手塚光盛は源行綱と瀬尾兼氏の娘の間の子どもという設定となっており、母親が源氏の白旗を片手を犠牲にして守ったことから、斎藤実盛に源氏の白旗を守った片手のために塚を立て「手塚」を苗字とし、母の形見の刀の銘にある「光盛」を名乗るが良いと言われる。

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